日本看護技術学会

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第16回学術集会 特別講演Ⅰ の内容を掲載しました

会員の皆さま

編集委員会

 学会誌がオンライン化されましたため,学術集会における特別講演の内容をお伝えする場所が無くなってしまいました。理事長と相談しました結果,「特別講演の内容など,従来学会誌に掲載していたものは,学術集会に参加されなかった会員の皆さまにも伝えた方が良い」との判断から、ウェブに掲載することになりました。準備が整い次第,掲載して参ります。


 

第16回学術集会 特別講演Ⅰ

看護の”わざ”-その根底にあるもの

Something in the Nursing Art and the basis

川嶋みどり

 

§ はじめに

 看護が社会的な信頼を得る専門職であるとしたら、その実践を通して得られるアウトカムを、看護の受け手とともに共有するために、優れた看護の”わざ”を精練することに尽きよう。ここで用いる”わざ”は、技術を達成するための身体に具わった知の技法とする。技術を著す用語は単一ではないが、看護技術の場合は、学問と技術の2つの意味を内包し、漢語の「芸術」との顕著な近似性のあるアートがもっとも相応しいように思う。看護の真価は技術(アート)にあり、その底を流れるのが人間共通の他人を気遣う心である。

 日々の業務としての”わざ”は、保助看法で規定されている看護業務を意味するが、ここでは、専門性を担保する看護技術を”わざ”ととらえて技術論的な立場からアプローチする。すなわち、看護実践の”わざ”には、①言語化されて知識として伝達可能な技術的側面と、②経験や反復トレーニングにより身体の中に組み込まれてはいるものの、言語化し得ない技能的側面がある。これを、有形の可視的な”わざ”と、無形の内面的な”わざ”という分け方もできるが、あくまでも論理的な区分であることを忘れてはならないだろう。実際の場面では、両者が融合して機能し目標を達成することになる。

 

§ 創まりは自然の秩序(法則性)の発見

 直立二足歩行を獲得し両手を自由に用いることが可能になった人間は、自然界のあらゆるものを、自分たちの生存に必要な目的のために変形(道具に)しこれを用いた。この過程で宇宙の中の秩序の存在に気づいたエピソードは幾つもある。たとえば、ナイル河の氾濫と天空のシリウスの出現が厳密な客観的法則性にしたがっていることを通じて、その年の農作物生産の如何を予見し得た。また、古代の女たちのいのちの営みに思いを馳せて、「こぼれた種から芽生える理法に気づき、小さい根菜の切れ端から数倍の子塊を堀出した増量の驚き」(吉野-1977)は、まさに、食用植物栽培技術の創まりといえよう。まさに、「人間は、不可能を可能に、非現実を現実にするために、謬ちを踏みしめながら実践、実験を繰り返して新たな世界を切り拓いてきた」として、この創造の自由を文化と名づけたのは中井正一(1975)であった。

 

§ 技術とは

 自然や物の中にだけ法則性があるのではなく、人間と物のあいだ、人間と人間とのあいだにも秩序(法則性)があるらしいことに気づいた人間は、これを絶えず探し求めることになる。

 このように、人間がこの宇宙の中に自然と適応しながら、自分で創造し、発見し、それを固め、さらに発展させて行く、これを大きい意味での技術という。この技術の本質を規定したのが、理論物理学者武谷三男であった。

 武谷は、「実践を内面からその実践が如何にして可能であり、如何にして行われているか、その原理について見る」という基本姿勢のもと、「技術とは人間実践における客観的法則性の意識的適用」と規定した。そして、技術は客観的であるのに対し、技能は個人的で主観的なものであり、「こんな感じの場合うまくいく」といった身体知が熟練によって得られることを明らかにした。このように、技術と技能は何れも優れて人間の知の営みである。目標達成を媒介する思考と身体の動き、すなわち技術と技能を伴った実践を、ここでは”わざ”としておく。

 

§ 何故、今、”わざ”なのか

 近年の科学技術の進歩は、人間の知の営みの多くを機械に委ね、自然、環境、社会を支配してきた。今やAIにより人間本来の「知」とは何かが問われる時代となった。とはいえ、その本質から見て、もっとも機械化、効率化には馴染まない営みが看護である。そこで看護本来の役割である「自然の回復過程を調える」”わざ”のありようを真摯に探究し、人間としての「知」へのアプローチをすべき時であると思う。

 看護の本質は、医薬品や機械に依存せず、看護師自身の身体ツールと全人格を投入して、対象となる人の自然の回復過程を調えることにある。従って看護師は、自らの五感を集中し、その人のそばにいて(存在)、よく聴き(傾聴)、皮膚を介して触れる(タッチ)ことにより、病苦や関連する不快、不能にからむ不安を軽減する。そのプロセスもアウトカムも狭義の医療技術とは異なり、安心で安楽という特徴をもっていて副交感神経優位となるため、免疫細胞並びにオキシトシンシステムの活性化がもたらされる。まさに、自然の回復過程を促す”わざ”の特性を持っている。

 

§ 専門的"わざ"の条件と専門職の資質

 専門的な”わざ”は、合法則性に則った確かさにより、安全性と妥当性が担保される。さらに専門的な”わざ”は、安定した美しいフォーム(型)によって安楽性が担保され、これによりその”わざ”の信頼性が得られることにもなる。ヘンダーソンは、Claire Denisonの「結局のところ、また本質的に、看護ケアの質は、それを行う人間の質によって決まる」を引用し、「看護ケアの効果を高くするもっとも重要な無形資産は、恐らく看護師の人格であろうから、人間を大きくする一般教育の効果は是非とも理解されねばならない」(1964)と述べた。つまり、看護師が専門的な優れた”わざ”を提供するためには、専門的知識はもとより、人間としての基本的教養が大切であることを示唆したのである。

 現代看護師が、看護の受け手の人びとに約束されるべきは、いのちと暮らしに真摯に向き合い、日本文化を背景にした生活(暮らし)の型の継承者になることである。専門的知識を深めてもそれに偏らず、五感を駆使して幅広く豊かに文学、音楽、絵画、彫刻、映像などの芸術をはじめ、感性を刺激するあらゆる事象、経験から学ぶ姿勢が求められる。こうして、気遣いや配慮をさりげなく行為に移す人間性が育まれ、暮らし目線と専門性を統合して、目の前の事象と背景を繋ぐ思考回路が形成されると思う。

 

§ 看護の”わざ”を伝えるための教育

 資格取得後の看護師の実践力の覚束なさは、今に始まったことではないが、高等教育化によってますます、その傾向が強まっている一面を直視する必要がある。看護学が実践の学であるとしながら、知識偏重のままでは実践力が身につかないのは当然である。先にも述べたように、言語化された技術は客観的であり教育可能であるが、その知識は必ずしも実践に移せるわけではない。つまり、「わかった」けれど「できない」のである。言語化されていない”わざ”の要素を、自らの身体でキャッチする方法(技能習得法)の技術化が遅れていることを認識する必要がある。

 知識として得た技術の方法を、身体知にするためには、何はさておいても、手足を使って繰り返し行う(量的実践)ことに尽きるが、現代の実習環境と時間的な制約のもとでは、かなりの工夫と努力が求められる。社会的に有用な看護実践力を持った人材育成をするためには、限られた時間のもとで技能訓練を成功させるための方法の確立が急務である。初心者が教師や先輩たちの優れたわざを注視して、底に流れるコツ(その先輩の主観的法則性)をくみ取り、客観的法則性(言語化)に転化して習得する方法は、思考と身体を同時に働かせる上からも有用であるが、そのためには、指導教師らの優れた実践力が必須である。こうして技能習得に至るには、先ず模倣から始まり回を重ねるに連れてそのフォームを探り得るのだが、自分のからだが、1つのあるべき法則性、1つの形式を探り当てた初心者は、実践の喜びを主体的に体験することになる。そして、熟達するに連れてますます、”わざ”のレベルの向上に向かって研鑽をすることになり、新しい”わざ”の創造にも意欲的になるであろう。

 

§ 文化の継承者としての看護師

 動物の行動は、遺伝と本能によって支えられているが、人間は、模倣と経験、及び言語を通して集団の一員としての思考、感情、行動を仲間から学習(習得)し獲得する。さらにその成果物を同世代、後世代の人びとに伝達する。こうして構成された文化は、人間が自然に手を加えて形成して来た物心両面の成果、衣食住をはじめ技術、学問、芸術、道徳、宗教、政治など、生活形成の様式と内容とを含んでいる。

 技術論の立場から看護と文化の関係を考えると、行為を可能にする原理として知識化された技術は、生活行動援助の生理的側面、医療安全、リスクマネジメントなどは万国共通である。一方、技能は、文化的特異性による差異があり、生活行動援助の心理的・社会的側面、並びに主観的な安楽性などは、国や民族の差異を背景にして極めて個別的特徴がある。

 上記のことから、看護師としては、時代やできごとにより、変化して来た日本国特有の流れに添ったケアを展開すべきである。すなわち、効率性や利便性を追求する余り、個別のその人らしさ(安楽性)を排除する流れを堰き止める責務の自覚である。看護自体が人びとの暮らしの中から生まれてきた歴史をふまえた上で、国の文化の継承者としての自覚を持つならば、ふつうの暮らしに潜む日本文化のありよう(暮らしのパターン)を普及し伝えることもまた、看護師の仕事である。

 

§ おわりに

 ”わざ”の可能性と限界を明らかにする必要性は、看護のみに限られた問題ではない、そこで、人間のいのちと健康、暮らしに関わる専門職者としてのありようを示唆する言葉を紹介しよう。50年以上前のものではあるが、極めて現代的な提言であると思う。要約すると、「地球規模で人間がより人間らしく生きるために、科学の成果を非科学的に適用することへの批判」と、「目前にあることと将来起こってくることとの間の連鎖を知る努力をすべき」というのである。広い視野から、現代を生きる真理の探究者であった武谷の言葉である。(日本戦没学生記念会「わだつみの声」1965)

 病院文化に限ってみても、医療安全をふまえて患者の尊厳と安楽性を維持できる”わざ”の実践と療養環境(文化とアートの融合)により、たとえ心身の不具合があっても、人間らしくその人らしい人生を中断せずに過ごすことを可能にすることを、看護主導で定着し普及することこそ、人びとのQOLに資する現代看護の課題であると思う。